Vtuberのライブ配信を観るとき、多くの人が心地よい環境の条件として「民度の高いチャット欄」を挙げるでしょう。
荒らしや誹謗中傷がなく、誰もが配信者とコンテンツを純粋に楽しんでいる空間。それは間違いなく、一つの理想郷です。
しかし、あなたも一度は感じたことがないでしょうか。
あまりにも完璧すぎる、一糸乱れぬチャット欄に、ふと背筋が寒くなるような「不気味さ」や「居心地の悪さ」を。
全員が同じタイミングで同じ賞賛の言葉を送り、少しのノイズも許されない、まるで無菌室のような空間。
「民度が高いのは良いことのはずなのに、なぜ息苦しいんだろう?」
「むしろ、多少ザワザワしている方が安心するのはなぜ?」
完璧なチャット欄が「不気味」に映る理由
一見すると理想的な「民度の高い」チャット欄が、なぜ私たちの心をざわつかせるのか。
もちろん荒れないチャット欄は褒められるべきことです。
しかし、あまりにも荒れない、一糸乱れぬコメントを見ていくと心がざわつくのです。
民度良すぎると人間味を感じない?
そもそも、生身の人間が集まる場所には、本来ある程度の「ノイズ」や「揺らぎ」が存在するのが自然です。
考えてみてください。友人たちとの雑談、学校の教室、職場の休憩室。
そこでは、誰かが少し的外れなことを言ったり、面白い言い間違いをしたり、話が脱線したり…そんな予測不能なカオスの中にこそ、「人間が集まっている」という温かみや実感があります。
ところが、完璧すぎるチャット欄では、この人間的な揺らぎが一切排除されています。
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流れるのは、完璧な肯定と賞賛の言葉だけ。
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配信者の言葉を、ただオウム返しするコメントが並ぶ。
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決められた定型文や特定の絵文字だけが、統率された軍隊のように流れていく。
この光景は、もはや生身の人間の集団というより、あらかじめプログラムされたBOTが一斉に稼働しているかのように見えてしまいます。
そこには、個々の視聴者が持つはずの「感情」や「意思」、そして「個性」が感じられません。
台本通りに進む演劇を見ているような、どこか作り物めいた不自然さが、私たちの本能的な違和感を刺激するのです。
これが、居心地の悪さを感じる最も大きな要因かもしれません。
「変なことを書いたらすぐ消されそう」という圧迫感
過剰にクリーンなチャット欄は、無言の監視と圧力を生み出します。
この圧力の源は、主に二つ考えられます。
一つは、「過剰なモデレーター」です。
配信者を守るために必要なモデレーター(「モデさん」とか言われる存在)も、度を越せば言論統制になりかねません。
非常に厳しいNGワード設定や、少しでも空気を乱すと判断されたコメントをモデレーターが即座に削除・ブロックする体制。
これが徹底されすぎると、視聴者は「何を言えばBANされるかわからない」という恐怖から、当たり障りのないコメントしかできなくなります。
発言は自己検閲され、自由なコミュニケーションは失われていくのです。
もう一つは、「視聴者間の相互監視」です。
いわゆる「自治厨」や「指示厨」と呼ばれる一部の視聴者が、「今のコメントは流れと違う」「〇〇という話題は出すな」といった形で、他の視聴者のコメントを過剰に咎める雰囲気。
これが蔓延すると、コミュニティ全体が「少しでもズレたことを言った者は、仲間から排除される」という恐怖に支配されます。
賞賛以外の意見が許されないその空間は、もはや自由なファンコミュニティではなく、一種の宗教的な儀式の場にも似た、息苦しい場所へと変貌してしまうのです。
Vtuberのライブ配信が録画された動画と決定的に違うのは、配信者と視聴者がリアルタイムでコミュニケーションをとり、共にコンテンツを創り上げていく「双方向性」にあります。
その醍醐味の核となるのが、コメントによって生まれる予測不能な「化学反応」です。
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ゲーム実況で配信者が思わぬミスをした時、チャット欄が一斉に愛のあるツッコミで溢れ、大きな笑いが生まれる。
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雑談配信で視聴者が投じた素朴な疑問から、思いもよらない面白いテーマに話が広がる。
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視聴者の秀逸な「空耳コメント」を配信者が拾い、その日一番の盛り上がりを見せる。
こうした瞬間こそ、ライブ配信の真骨頂と言えるでしょう。
しかし、前述したような無菌状態のチャット欄では、こうした化学反応が起こる余地がありません。
誰もが「正しい」コメントをすることに終始し、ユーモアや遊び心のある発言が「不謹慎だ」と見なされることを恐れるからです。
結果として、配信は「配信者が一方的に話し、視聴者はそれをただ拝聴する」という一方通行の関係に陥りがちです。
これでは、ライブ配信ならではの一体感や臨場感は失われ、ただ高画質の録画映像を皆で同時に見ているのと大差ありません。
その物足りなさが、「何かが違う」という不気味な感覚に繋がるのです。
「多少荒れている方が居心地が良い」という逆説の真実
ではなぜ、私たちは「多少荒れている方が居心地が良い」と感じてしまうのでしょうか。
もちろん、これは誹謗中傷やスパム行為といった明確な「荒らし」を肯定するものでは決してありません。
ここで言う「多少の荒れ」とは、むしろ「人間味あふれるカオス」や「心地よいノイズ」と表現すべきものです。
完璧に整えられたチャット欄が「常に監視されている試験会場」だとしたら、多少のノイズがあるチャット欄は「気の置けない友人たちと集まる居酒屋」のようなものです。
居酒屋では、誰かがしょうもないダジャレを言ったり、少し滑った話をしてしまったりしても、それが笑いやツッコミの対象にはなれど、深刻な非難の対象になることは稀です。
そこには、「完璧でなくても大丈夫」「失敗しても受け入れてもらえる」という暗黙の了解、すなわち「心理的安全性」が存在します。
この心理的安全性が、チャット欄においても非常に重要なのです。
「面白いことを言わなきゃ」「配信者の意に沿うコメントをしなきゃ」というプレッシャーから解放され、「ちょっと変なこと言っても、誰かが拾ってくれるかも」「まあ、スルーされてもいっか」と思える余裕。
この安心感があるからこそ、視聴者はリラックスして、自由に自分の言葉でコメントを打つことができるのです。
ここで、「心地よいノイズ」と、断じて許容すべきではない「不快な荒れ」の境界線を明確にしておきましょう。
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心地よいノイズ(揺らぎ):
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ユーモアのあるツッコミや、愛のあるイジり
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配信内容に沿った秀逸なネタコメント
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配信者が言い間違えた時の、一体感のあるツッコミの嵐
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不快な荒れ:
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配信者や他の視聴者への誹謗中傷、人格攻撃
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配信と全く関係ない話題の連投(伝書鳩行為など)
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過度な指示、命令、ネタバレ
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私たちが居心地の良さを感じるのは、前者である「心地よいノイズ」に満ちた空間です。
これらのノイズは、配信というメインのメロディに彩りを加える豊かなハーモニーのようなもの。
それらが存在することで、コミュニティはより活気に満ち、深みを増していくのです。
まとめ
民度が良すぎるチャット欄に私たちが感じる不気味さ。
その正体は、「人間らしさ」が失われた空間に対する、私たちの本能的な違和感なのかもしれません。
私たちがVtuberの配信に求めているのは、ルールでガチガチに縛られた静寂ではなく、お互いを思いやりながらも、自由に笑い、ツッコミ、時には少しだけハメを外せるような、温かいカオスのある空間です。
今度、あなたが好きな配信を観る時、少しだけチャット欄の「空気」に注目してみてください。
そこは、監視の目が光る息苦しい教室ですか?
それとも、笑い声の絶えない居心地の良いリビングですか?
そんな視点で眺めてみれば、あなたがその配信を好きな理由が、また一つ見つかるかもしれません。